ime1                                    平成28年6月20日 更新  
  更新内容 :    平成28年度前期企画展「加賀藩から見た北国街道の宿場と関所」を4月10日より開催中。 
            北国街道は「参勤交代、佐渡から江戸までの御金荷街道、日本海から信州への塩の道、信仰の道」 
            
道の歴史館かわら版に掲載しました。

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北国街道 関川関所 道の歴史館   

 
   
   北国街道 関川の関所 道の歴史館は、


   関所の歴史的価値や意義を多くの方に


   知っていただきたいと考え、跡地に


   「関川の関」を再現しました。


      温故知新
 江戸時代の交通の要所、関川の関所跡に広がる歴史ミュージアム、
 道の歴史館。 時代を超えて体験する峠の浪漫がここにある。
 街道の歴史は人の歴史。遠い昔の旅人を思うとき、これらの人が
 見えてくる



 Information

営業期間   4月10日~11月30日      時間  午前9時~午後4時半(5時閉館)

連絡先
TEL  (0255)86-3280           〒949-2112
FAX  (0255)70-2128           新潟県妙高市大字関川272
ime4 sekisyo@joetsu.ne.jp          関川の関所 道の歴史館

   
                                                   管理業務  :   大字関川振興協議会





   道の歴史館かわら版 

   北国街道は 「参勤交代/御金荷街道/塩の道/信仰の道」
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参 勤 交 代

 参勤は、もともと「参覲」と書き、諸侯が天子に拝謁することである。

 日本風にいえば、「上様に御礼する」ことでこともあり、豊臣秀吉が各地の戦国大名に要求した
ことも、「御礼」に来ることであった。「御礼」に来ない者は反抗する者とされ、「征伐」されることになる。
薩摩の島津氏や小田原の北条氏が攻撃されたのも、「御礼」に行かなかったからであった。

 この枠組みは、国外に対しても同じで、朝鮮通信使は幕府に「御礼」に来ていると解釈されたし、琉球に対しても
「御礼」に来ることを要求し、それが拒絶されたことから、島津氏に出兵の許可を与えている。

このように、参勤交代の原型は豊臣時代からあって、秀吉の伏見城や大阪城の周辺には、諸大名の邸地も与えられた。
徳川家康が江戸に幕府を開くと、江戸へ「御礼」に来ることを要求するのは当然の流れであった。とくに幕府から
睨まれた大名は、積極的に江戸に参勤し、人質を提供している。そして江戸に邸地をもらい、江戸屋敷を造営する。

 しかし、慶長期(15961614)には、いまだ大阪に豊臣秀頼が健在だったため、西国大名は、江戸と大阪の両方に参勤
していた。元和元年(1615)、大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、諸大名は競って江戸に参勤するようになる。
このころまでの参勤は、年末に江戸に到着し、年頭に拝謁し、すぐに暇を与えられて国元に帰るという形式であった。
「御礼」をすることこそが重要だったのである。

  自発的であった、大名妻子の江戸居住

毎年、江戸に年頭の「御礼」に来る参勤の形は、元和三、四年(16171618)ごろから隔年に江戸に来る形式に改められた。 

このころには、江戸の都市機能も格段に進歩し、大名の江戸屋敷も整備されていた。それまで国元で暮らすことが多かった
大名の妻子も、江戸に来るように要請された。ただし、これは考えられているほど、画一的・強制的に行われたわけではない。

加賀藩100万石前田家をはじめ、有力な大名がみな江戸に妻子を上げることになれば、他の大名は競って江戸に妻子を上げ
ることになる。他家の並を見合わせる(他家と同じ行動をとる)というのが江戸時代の大名の習性であって、あとは放っておい
ても幕府の目論見は実現されたのである。

  伺いが受理されてから出発する

寛永十二年(1635)将軍家光は、武家諸法度を改定して諸大名に伝えた。この法度の第二条に、次の有名な参勤交代の規定がある。

一、大名・小名、在江戸交代、相定むる所なり。毎年夏四月中参勤すべし。

 このころには、すでにこのような体制はほぼ固まっていた。しかし、明文化して発令したことの意義は大きい。
大名たちにとっても、それまで参勤交代は、伺いを出して許可されたうえで参勤し、次はいつ国元に帰れるかわからない、
といった状態だったから、このように制度として確定することのメリットはあった。

西国大名が三月末から四月の始めにかけて江戸に参府すると、江戸にいた東国大名が暇を与えられて国元へ帰り、
次の年の三月末から四月の始めにかけて東国大名が江戸に来ると、西国大名が暇を与えられて国元へ帰るという形式が調ったのである。

その後、寛永十九年(1642)には譜代大名の参勤の規定も発付された。ただし、譜代大名は常時江戸に詰める場合が多く、
これは参勤の命令というよりも、飢餓で荒廃した領地の政治を行うための帰国許可であった。

大名の参勤の時期は、外様大名は四月、譜代大名は六月か八月という規定だったが、勝手に出発することは許されず、あらかじめ
参勤伺いを願い出なければならない。伺いについての規定は、享保十七年(1732)二月の規定によると原則的には外様大名は
十一月、譜代大名は二月となっていた。いったん伺いを出して受理されると、なかなか変更できなかった。

藩主の病気などで参勤の時期が遅れる場合は、御用頼の「先手衆」(先手衆とは、弓や鉄砲の先手組の長を務める旗本で、
自分の出入する大名家の嘆願などの取次をする慣行になっていた)を介して 老中に延期願いの書付を提出してもらう。

 参勤と江戸の経費で藩財政の八割を占めた

参勤伺いが済むと、出発の準備が始まる。参勤交代で使うお金は、金・銀や銭の形で持参するが、大変重く、加賀藩では
六百キログラムにおよぶ。その他、武器、雨具、陣幕などの必需品や、入浴のための手桶や腰掛けなども運んでいたという。

宿の宿泊費は、一人当たり百六十文から百八十文ぐらい(一文二十円として三千二百円から三千六百円)で江戸時代を通じて
比較的安いが、人数や宿泊日数が多いからかなりの負担である。川留めなどで予定が狂うと、先々の宿をキャンセルして
保証金を支払わなければならない。

 食事は大名に随行する台所役人がつくる自身賄いと、本陣の主人に委託する本陣賄いの二つがある。自身賄いの場合には、
諸道具の運搬や関連する人件費などがかかるため、かえって高くつく。また、宿に着くと、本陣の亭主から献上品などがあるが、
これに対してそれ相当の返礼が必要である。時代が献上品も「倹約中だから」などの理由をつけて受け取らなかったり、返礼を
しない大名が出てくる。

 幕府は、早くから参勤交代の人数の縮減を命じていた。大名は格を守るためになかなか減らそうとはしなかったが、時代が下る
につれて参勤の人数が減少していく。よほど財政が苦しくなったからだと解釈できる。藩財政のうち、江戸での経費が六割近くを占め、
参勤費用が二割、国元費用が二割ほどであった。現金収入のほとんどは江戸の生活費と参勤交代費用に消える。

 しかし、このことにより各藩の藩士の見聞を広め、街道には毎年莫大な額の金が消費され(加賀藩の道中費用は現在の米価換算で四億円)
江戸や各地の情報がもたされたわけで、これが地域の振興や文化の広がりに果たした役割ははかり知れない。

 他領の通行と道中すれ違いの儀礼

 参勤交代で、他藩の城下を通過するときは、藩主からもてなしや進物があった。他藩の領内を通過するだけでも使者が来る。
これは相手によって扱いが違った。そして江戸に到着すると、留守居役が通行した諸大名に御礼の書状を送り、宿に進物があった
大名や代官たちにはお礼の使者を遣わしている。また、道中でのすれ違いや城下での挨拶など、参勤交代では江戸での秩序をもと
にした様々な儀礼が展開されており、先例にもとづく諸大名の格によるものである。

 文政五年(1822)の史料によると、参勤交代に際して通行する街道ごとの大名数は、東海道百五十九藩、中山道三十四藩、
奥州街道十七藩、日光街道六藩、甲州街道三藩と決められていた。

 トラブル回避にさまざまな工夫

 諸藩では、藩士たちに、道中でなにがあってもがまんせよと命じている。しかし、ときに他藩とトラブルを起こすことがある。
また、参勤途中の大名と幕府役人がかち合うことで、「片頬打ち」といって、宿場を左右に分けて譲り合うようになっていた。
しかし、大名と幕府役人とのトラブルもよく起こっていた。日光街道においては、仙台藩と日光社参準備のために派遣された
勘定奉行との間に宿泊先の本陣争いが起きた。参勤道中は仙台藩の威勢を示すパレードであり、一方、幕府役人の側からみると、
日光への出張は公儀の威光をかけて役儀であるため、譲に譲れないことで強引に本陣宿泊してしまった。このため伊達家は野宿
する羽目になったことで、幕府に両人の引き渡しを要求したという。このようなトラブルを避けるため絶えず道中の情報を収集して、
宿場でかち合うことが起きらないように、加賀藩でつくった複雑なダイヤグラムであり、またあらかじめ道中を変更することもある。
「下に
~」「下に~」と威張って歩けばいいように思われている参勤交代であるが、実際の道中は命かけだったのである。

  参考資料: 「参勤交代」の新研究 山本博文、「参勤交代」石川県立博物館

                                                                              
 
 御金荷街道

 江戸時代の出雲崎には、泊屋、敦賀屋、京屋、熊木屋などの回船問屋があり、佐渡奉行が渡海する時には、たくさんの
船が伴走したという。

佐渡金山で精錬された金銀は、小木港から出雲崎港に運ばれました。1600年、徳川家が政権を手にすると、佐渡を直轄地
として金銀山の開発をした。佐渡で産出された金銀を「佐州御金荷(おかねに)」と称し、相川から小木まで陸送、小木港
から佐州御用船で出雲崎へ輸送された。
「御金荷」輸送上の特権として、無賃継立 御朱印 と佐渡からの宰領者は、 山方役1名、町方役1名であった。出雲崎で陸揚
げされ、代官所役人立会いの元、御金蔵に納め2、3日後北国街道経由で江戸へ向かった。
 

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高田地震の影響により寛延4年(1751)に三国街道を利用した以外は、北国街道を通行
したらしい。通常、佐渡の金は毎年春・秋の2回、約100里(400km)を11日かけて、
出雲崎から江戸の御金蔵へ運び込まれたといいます。御金荷は、石地・宮川・柏崎・鯨波
を通り、鉢崎(柏崎)の御金蔵へ、翌日は、柿崎・潟町・黒井・春日新田を経て高田城下
の御金蔵に、2日目は新井・二本木・松崎・関山・関川を通って、信州野尻(現信濃町野尻)
の御金蔵に納められた。

この街道には御金蔵は以上の3か所しかなかったといわれる。しかし、関所の数は多かった
ことから、いかに幕府が警備を厳重にしていたかが分かる。

 野尻宿の御金蔵で一夜をあかした御金荷は、午前中に「金附場(輸送する途中に設けられた
中継施設)」である牟礼(現飯綱町小玉地域)で、新しい馬に付替え、昼までに善光寺宿へ継ぎ
送るのが恒例だった。(慶長16(1611)年以降善光寺ルートが公認された)



 牟礼宿の金附場は、300坪の敷地があったそうで、御金荷の輸送量については、産出量の多かった江戸初期から中期にかけては、
一度に馬60匹分を年に3回輸送したこともあったといい、馬や人足の提供、道路の補修、金附場の警護などの負担は、牟礼宿を
はじめとする近隣の村々が担いました。

 江戸初期は北国街道から分岐する、東脇往還(松代街道)を通るルートであった。長野市豊野~長沼~須坂市福島~川田~屋代
~上田~小諸~追分を経て中山道に入り、江戸へ輸送された。

 牟礼のように、各宿場の村々では、金銭や人馬の提供など負担は大きかったようです。鉢崎では、金箱が納蔵された夜は宿場の
番頭を中心に70人で警備に当たった。高田城下では、64人の町人達が夜警に当たった。
柏崎では、負担分をなんとかしてくれと、藩に嘆願することもあったようです。一般町民にとって、何の恩恵もない道中を恭しく
迎えるのは苦痛だった様子を、

  入梅晴(つゆばれ)や 佐渡の御金が 通るとて  一茶(「七番日記」)

 江戸に着いた金は「金座」「銀座」で小判などに鋳造された。駿河小判が製造された金座は、今でも「静岡市金座町」と地名に
残っています。
また、当時の貨幣制度では、使い道によって金か銀か別れており、東日本は金本位制、西日本は銀本位制だったため、
その両替を行うのが両替商で、銀座はその近くにあったそうです。これも「両替町」として静岡市はじめ、各地に地名が残っています。

その後、各地にあった金座・銀座は慶長17年(1612)に江戸に集約された。

  参考資料 : 出雲崎ホームページより



  日本海からの塩の道

 江戸時代、多くの塩は越後から北国街道を通って信濃に運ばれました。荷物は宿継ぎで送られるのが原則で、商品荷物の中心で
あった塩の輸送は宿場の繁栄につながりました。関川の関所など越後国境の関所を通って柏原宿に宿継ぎされ、柏原は高田と
善光寺の中間にあたり、ここで塩商売を始めたのは中村徳左衛門でした。中村家は、元禄9(
1696)年、宿場の本陣・問屋から
分家し、明和2(
1765)年(江戸中期)頃、塩商売を始めたと伝えられています。天明4(1784)年以降の店卸帳によると、
天保
141847)年までの60年間で年々の総金高は、200両から400両まで増えました。資料から経営内容を読み取るのは
難しいですが、天明4(
1874)年は総額204両のうち、貸付金55両、購入代金102両で、銑鉄(107駄)塩、大豆、小豆
のほか、鰤、昆布などの海産物などを扱っています。

 天明6(1786)年は塩290俵、代金37両で越後今町(上越市)美濃屋から仕入れ、高田名立屋・河野屋などに貸付金がある
ことから、塩を中心に仕入れるようになったと思われます。寛政3(
1791)年119両、4年131両、5年143両と塩代金が増加します。

 購入先は今町の美濃屋と高田小町の名立屋・河野屋などで、このころから塩商人として活躍しました。また、彼らと頼母子講(無尽)
も行って金銭を融通しあい、
3代・4代の徳左衛門の時代に急成長しました。商品流通の変化にともない、天保7(1836)年、柏原宿と
古間宿の塩商人7人は、塩仲間を結成し、嘉永4(
1851)年には11人になりました。

 参考資料:一茶記念館(平成27年9月~28年3月20日企画展)

  
 日本海から信州への主な塩の道は、北国街道と飯山街道、千国街道(糸魚川~松本平約120km)があります。塩が信州の安曇、
松本平とその周辺地域に運ばれてきたのは、瀬戸内からであった。北前船により下関海峡を経て能登を迂回し、糸魚川から陸揚げされ、
歩荷や牛馬によって松本へ運ばれてきた。信州では味噌や漬物となる。

その塩を大事に収蔵しておくところが塩蔵で、昔は各所にあったものだった。

 その塩蔵が松本~糸魚川間の街道中、二か所だけとなった。一つは長野県大町市八日町の塩問屋だったところにあるもので大型。
堅固な土蔵造り。(塩の博物館-塩問屋だった平林家の諸施設を博物館としたもので、大型の塩蔵がある)、もう一つは元、長野県
小谷村の北辺大綱にあったもので、現在は沓掛の牛方宿
(小谷村沓掛)に移転されているもので、塩気を避けて戸車に至るまで金具は
一切使われていない。
 地下が牛小屋になっていることが特徴である。また、塩の道は諏訪信仰の道筋であった。七年ごとにやってくる諏訪の御柱祭の前年
に信越国境の戸土の境の宮(小谷村戸土)と小倉明神(小谷村小倉)で薙鎌打ちの神事が交互に執り行われる。
歩く時代といえ、大変な道程であった。大祝は諏訪の最高職の神主であり、あらためて諏訪信仰の道筋であったことが気づかされる。

 参考資料 : 塩の道 歩けば旅びと(千国街道をゆく)他


北国街道は江戸時代 「善光寺道」

江戸時代の「善光寺参り」の大半が女性、当時、江戸から出る女性と入る鉄砲は厳しく調べられたが、善光寺に至る街道の関所によっては、
善光寺参りと明らかに分かる女性は大目に見て通したといわれる。また調べが厳しい関所の前後には、抜け道を案内する者もいたという。

女性が数多く参拝するようになったのはいつから?

鎌倉時代には女性だけの善光寺参拝団体も現れました。善光寺信仰が盛んになったのは平安時代末期からといわれ、鎌倉時代から全国的
に広まった。江戸時代になるとさらに増え善光寺参りの半数が女性であった。


(参考文献 善光寺さん 信濃毎日新聞社)

善光寺は女人救済の寺 「牛にひかれて善光寺参り」って、なに

「その昔、千曲川の川縁でさらしていた婆さんの大切な布を、一匹の牛が角に引っかけて走りだしました。
これを追いかけて、とうとう善光寺までやってきてしまった婆さん。
疲れ果てて寝込んだ夢枕に如来様が立ち、
その牛は如来様の化身であったことが分かります。
すべてを悟った婆さんは信仰心を得て、救われました」不信心の老婆が牛に引かれて寺に行き善女になった
という話は「今昔物語集」に登場する。それが善光寺信仰の広まりとともに「牛に引かれて善光寺参り」の話になった
といわれる。小林一茶の句にも「春風や牛に引かれて善光寺」がある。もっとも、善光寺がいかに女人救済、女人往生の
寺かについては、「善光寺縁起」から、天竺
(テンジュク)国〔インド〕の月蓋長者の娘、如是姫の命を救った阿弥陀如来と
お釈迦様から放れた光によって誕生した阿弥陀三尊像が善光寺の御本尊。地獄に落とされていた女帝の皇極天皇を救済
した話も登場する。
鎌倉時代には源頼朝が焼失した善光寺の再建に力を入れたが、その妻、北条政子もあつく信仰。
自ら常念仏堂を創建したといわれている。「女人救済の寺」としての信仰は連綿と続き、いまも善光寺参拝者の半数以上
は女性が占めている。これほど女性の信仰を集める寺は全国でも珍しい。

善光寺の文化史的意義 (善光寺建立の謎 ― 杉山二郎より)

善光寺も天台宗と浄土宗が同居しています。彼の地に参詣する信者で、天台系の宿舎は□□院であり、浄土系は□□坊と
呼ばれて、毎朝の本堂での供養も交代で行われています。そして、天台宗と浄土宗が今日の共存の姿をとったのが、徳川
家康が江戸に幕府を開いて、天海僧上を中心に、比叡山延暦寺を模倣して、江戸城の鬼門を守護する東叡山寛永寺と、琵琶湖
の竹生島弁財天を勧請して忍之池弁天社を造立いたしました。同時に西に芝の増上寺を建立、浄土宗知恩院派の管掌する
歴代将軍の御霊廟を造立いたしました。この徳川幕府の天台宗と浄土宗の保護政策の餘影が、善光寺に反映して現在の姿が
確立されたのであろう。


善光寺参拝〔抜け道の話〕 ■金森敦子(ノンフィクション作家)

 江戸後期から増えてくる東北の農村地帯の人たちが書いた旅日記を読むと、「私が習った江戸時代の歴史、江戸時代のイメージ
っていったい何だったんだろう」と驚くことが多いのです。
そのなかで一番驚いたのは、関所抜けです。関所抜けと言うと言葉は柔らかいのですが、つまり関所破りのことで、幕府の掟では
磔の刑に処せられることになっていました。一番重い刑ですね。
 それを、江戸時代の庶民たちは実に易々と破りながら長い旅をしているんです。
〈中略〉庶民の女性は関所手形を持たないで長旅をするのが常識だったようなんです。

 越後と信州の間に北国街道が通っています。越後の一番はずれに関川という宿場があり、ここは高田藩が徳川幕府から預かって
いた
関川の関所があります。この街道は善光寺参りに利用されていたため、女性の往来が非常に多かった。それで、女性連れが関川
の宿に着くと、真っ昼間から旅籠の宿引きが袖を引く。「お客さん、当店にお泊まりになると関所を通らない道を
ご案内しますので、是非うちにお泊まり下さい」と。

 それでどこを通るのかといえば、関川の関所を通るんです(笑)。関所には鍵のかかった頑丈な木戸がありますから通れません。
ところが、端のほうに小さなくぐり戸があり、そこを堂々と抜けていくんです。それが毎夜、毎夜繰り返されている。

 ある人の旅日記によると、そのくぐり戸の下の地面が窪んでいたそうです。どれだけ大勢の人がそこを通ったことか。関所の関守
は関所の内部かすぐ近くに住んでいましたから、毎夜、毎夜繰り返される関所破りを知らないはずはないんです。それなのに捕まえた
という記録がありません。

 全国五十三カ所の関所でも、似たようなことが繰り返されていたようです。それでも庶民が関所を破って磔になったという例は数例
しかないそうです。なんでこんなことになったのか。要するに、捕まえると幕府から「お前の関所の警備はなっておらんじゃないか」
と怒られるからです。

 〈中略〉大人の旅でも無一文で旅に出る人がたくさんいました。それでもちゃんと帰ってこられるというのは、それだけ沿道の人たち
の喜捨が多かったということです。自分よりも貧しい人には、お金なり、食べ物なりを施すというのが当たり前だった世界、
それが江戸時代なんです。